炎舞 速水御舟展 重要文化財の日本画を広尾の山種美術館で鑑賞

イベント

自分が残した仕事、作品などが後の世の人に感動や影響を与える。
経営者でも芸術家でも、そういうところは目指したいですね。

芸術に関しては亡くなってから作品が評価されることも多いですが、
今回紹介する速水御舟は存命の時からその才能を評価されました。
惜しまれながら1935年、40才で亡くなった画家です。

既に終わってしまいましたが、
この速水御舟展が行われていて、
これまであまり興味のなかった日本画を鑑賞して来ました。

注目作品はポスターにもなっている”炎舞”。

どこかで見たことあるといった作品ではないでしょうか?
所蔵している山種美術館で2016年以来の展示とのことで
気になってしまったので、しょうがない。
見に行ってきました。

この”炎舞”は軽井沢の別荘で書かれたようですが、
窓からのぞくこの作品があまりにリアルすぎて、
近所の人が火事と思い消防車を呼んでしまった
といういわくつきの作品。

実物はどんなもんだか気になりますね。

ということで山種美術館に向かいました。

 

渋谷駅の東口からバスに乗り、10分くらいで最寄りのバス停でおります。
ちょっと歩くと、山種美術館の案内が。

都内の用事が早めに終わったので、
今日ならいけるかと結局3時ころには到着です。

美術館らしい、いい感じの建物ですが、
日本画の専門美術館というにはモダンな作りです。

広尾のイメージなんですかね。

真夏の暑い日でしたが、ギリギリ汗だくにならない程度で
到着です。

御舟は600ほどの作品を残したそうですが、
そのうち130点余りがこの山種美術館が所蔵しているとのことです。

 

 

入場してチケット購入したところ、
こんな感じで、炎舞。

パンフレットも炎舞。
やっぱり速水御舟は炎舞なんでしょうね。
入る前からおなか一杯になりそうです。

 

 

会場に入る前はなんとなく
炎舞みたいな、怖いような迫力のあるような絵を描く人
というイメージでしたが、
ここでは全体的には、
パンフレット裏にあるような絵が大半で
平和な花や木、風景、女性の作品ばかり。
これぞ日本画という感じでした。

 

会場を進んでいるとなぜかシャッターを切る音が。
マナーはどうなってるんだと思ったら、
こんな表示が。いい時代なんでしょうかね?

でもこれができるなら、全作品写したっていいじゃない、
とも思ってしまいます。線引きはどうなってるのでしょうかね。

 

この作品
結構大きな屏風なので、
ある程度離れないと全部が写らないし、

離れると人が前に入ってしまう。
結局とれたのはこんな感じです。

当たり前と言えばそうなんですが、
何とか撮れたかなと思ったところ、
ガラス越しなので人が写りこんでる。

感じだけ伝わればいいというところですね

 

でもこんな苦労して撮影してたら
じっくり見ることも難しいですね。

全作品撮影OKにすると、見ることがおろそかになる、
そんな感じです。
ここだけはOKというところで
留めておくのがいいのかもしれませんね。

 

 

 

肝心の炎舞は別の少し暗めの狭い部屋に飾られていて、
さらにライトアップ。このおかげが、大迫力。

絵のサイズは120.3×53.8㎝とのことですが、
この演出のおかげでもっと大きく見えましたし、
炎が燃え上がり、触ったら熱いんじゃないかという感じ。

かなり近くで見ることができたこともあり、
本物の迫力を感じられて、これを見れただけで大満足。

 

 

大抵お土産に図録を購入するのですが、

今回は珍しく絵ハガキを購入しました。

 

絵葉書を撮影して、一生懸命加工したのですが、
私の腕では展示されてた絵の雰囲気は再現できません。

この何百倍はという目で見てお楽しみください。

 

 

もう一つ絵葉書を購入したのですが、
それはこの『粧蛾舞戯』。

花や風景の絵が多い中で、
炎舞に近い作品はこの『粧蛾舞戯』だけでした。

31才で炎舞を書いた、翌年の作品。
炎ではなく蝶が主題なんでしょうね。

これ以降は亡くなるまでの作品は、
これに似たものは残してなさそうです。

本人曰く、何度もあの炎舞の炎を何度再現しようとしたけれど、
あれを超えるものは描けず、断念したと伝えられています。

それだけ特異な作品であり、神がかった作品なんでしょうね。
せめて蝶だけでも、という最後の抵抗がこの『粧蛾舞戯』なんでしょうかね。
いろいろ想像が湧いてきます。

 

 

美術館に行っていつも思うのですが、

この作品書くのにどのくらい時間がかかっているんだろう?
それをこの歩きながら見ることって、作品や作者に失礼なんじゃないか。

そう思ってしまうのですが、今回は特にそう思いましたね。

 

なぜかというと、作品に書いているときの心情が書いてあって、
図録にも残されているからですかね。

考えてみるとあまり日本人の展覧会って
来たことがなかったことに気づきました。
なので本人コメントってあまり見ることもなかったんですね。

 

 

例えば、

「私が絵をけいこした時、武者絵を描いてみたところが、
先輩から、
「絵描きになるのか。それなら空想でなく、写生してみてやれ。」
と言われた。
それに感激した私は、自然を見なければいけないと思って、写生に傾いた。
私は純写実よりも、主観的なものが好きなので、
写生より、自分の主観的な見方を誇張してやって見た。

速水の絵は、「こさえることはうまいが、よくない」との批評を受けた。

それから、私は自然を徹底的に見ようと思った。
自然のまま、草木の葉の葉脈までも詳細に見なければ
安心ができないと思った。
小さな自分の主観は夢だ、現実に即して徹底していこうと、
努力して行った。これは非常に苦痛なことであった。

このことが絵を小さくし、窮屈にし、
細密描写の病弊をもたらしたらしいが、
自分の将来にとっては有益だった。
物の見方が、夢のような主観から、
よほど確実性を帯びてきた。
当時の研究会で友人が一弁を与えてくれたことが、
たいそう役に立った。」

とのこと。これが25歳の時のコメント。

更に同時期に、

「能率の上がらぬことは、写生をしてやる場合に多い。
1つの写生を二度やる。二度よりも三度の方が、
よい結果を生むことは、
判りきって居ることだが、
それは、何だか複写して居るように思われて感激が薄い。

それで、見なおして、また写生をする。
そのために時間を費やすことが多いが、
これが作製上、結果が良いことが判って、
自分は、そうした写生をすることが多い。

自分の見方、位置を変えてやる。
自分の気に入ったもので描いてみる、
それで失敗がいくつもある。
それと同じものを描きなおす事がある。
それはよほど失敗した時だが、その写生を土台にしてやれば、
前の失敗を取り返せる。」

いずれも、

プロと画家としてしっかり仕事をするための土台を作っていた時期の話ですね。

この修練を続けていたのでしょう。

39才のころには、

「眼より頭の勝った時代、
眼だけの時代、そして眼と頭が矛盾なく一致し融合する時代―
そこに至って初めて本当の美が発見されるのではないであろうか。
若し我々がその境地を掴んだ時、
もっと力強い絵画が生まれるであろうと思う。」

 

そしてこれが時期的に、

40才の亡くなる直前の言葉だと思うのですが、

こんな言葉を残しています。

「此頃は筆を持つのに、依然と違って、
「間伸び」があるように感じます。
写生を離れて、書けるという気持ちです。

以前は、写生したものに直ぐについて
書かなければならないような気持でいましたが、
それが今では、
例えば菊でも梅でも去年写生して置いたものを
季節を外れて―菊なら菊、
梅なら梅につかないでも書ける、
つかないでも書いてみたい心持になっています。
以前には、空想では書けなかった。
自分の目で見たものをその時に書かなければ、書けなかったのですが、
それが近頃では「間伸び」がしたとでも申しましょうか。
空想でも書けるようになっています。
狭いところから広いところに出たような感じです。」

 

桔梗という作品に添えられていた言葉です。

存命であれば更なる発展もあったとは思いますが、
若くしても亡くなる前に円熟の域に達していた
と思わせる言葉です。

プロの仕事って改めてすごいですね。
プロフェッショナルの意気込みというか、心意気が感じられて、
自分も頑張ろうという気になります。

こういった残された言葉も込みで、
もしかしたら 観覧した自分のこの後の人生が
変わったかもしれない。

そんなことを感じられた展覧会でした。

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